人生という日常の合間に見つけた平凡な感動や、過ぎ去る時間のぼんやり思惑。 人生紀行

 
タンポポ
No.113 春の便り(1) 2008. 3. 3

 うっかりしてたら、もう3月だった。
 「なかなか暖かくならない」と先を見てぼやきながら、後ろを振り返る気持ちで「もう3月!」という時間の進みに焦りを覚える‥、という混乱気味な思考を何の不思議も無く数分の内に巡らせながら今日も一日が過ぎようとしている。
 年明けからしばらくずっと一人の時間の多さは変らずで、どうも寂しい気持ちになっている自分に気付き、誰かに手紙を描こうとでも思い立った。
 
 うーーん、そうは思い立っても誰に書く? 誰でもいいのか?
 何を書く? 何を書いてもいいのか?
 当たり障りのない挨拶と短く浅い内容の手紙なら出せる対象(人)は多いけど‥、そんな内容をわざわざ手紙で出すのか? 何かを報告するようなイベントもお祝い事もないのに‥、手紙で何を伝えるのだ? ただ「元気?」って聞くような内容ならEメール貰う方が気楽だろ? 手紙なんか貰ったら‥、困るんじゃないか?
 
 年齢(30代半ば)と共に同級生も友人も、多くが特定のパートナー(配偶者)を得て、子育てと会社・地域の仕事に時間を追われるようになっていることを考えると、「返信催促を無言の内に含んだ」手紙と言うシロモノが受け取り側の心情に重く感じるだろうと勝手に予想している。私だって手紙を貰ってそれに返事を書くとなれば、その量・頻度によっては苦痛になるし、他にある仕事のせいで返事を書くのを後伸ばしにしていれば自分の在り様を自身で責め立ててしまう神経の持ち主だ。「忙しい」と口にすることが多い私の周りの人のことを考えれば、彼らも同じかそれ以上の精神状態であるに違いない。
 
 便利で手軽な通信機器の普及と共に手書き手紙の特別性・重要性は増した。
 毎日顔をあわせる家族への手紙が、披露宴の締めくくりと秘密の遺言くらいであるのは、手紙は“重たい”か“特別”だからだ(←後者は法律にまつわる理由アリ)。稀に会う間柄であるなら、引越し・結婚・出産・新築、そして年賀や暑中という年中行事など、何か社会的慣習的な報告事項(大抵はめでたいもの)がない時に手紙を出すことは少ない。特別な報告でもなければ、受け取り側に負担にならない電話かEメール、年中行事の葉書程度にしておくのがベターだと、歳を重ねるにつれ多くの人が思うだろう。よって特別な報告の機会に恵まれない人は、それだけ手紙を書く機会も少ないように思う。‥少なくとも私はそうだ。
 
春の便り(2)へつづく 
 

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