人生という日常の合間に見つけた平凡な感動や、過ぎ去る時間のぼんやり思惑。 人生紀行

 
鉋と削り屑
No.111 紡いだ光の色は(5) 2008. 1. 3

 にわか仕込みだが家具作りに想う。
 
 今回のように個人で家具を作って販売する場合、“大量生産の家具”はとてつもなく大きなライバルであり、越えられない壁でもある。個人では大量生産を行なう一般企業にはできない小回りを利かせた物を作るのだけれど、“お金と時間”はどちらにも平等(同じ土俵)だから単純ではない。
 間接的であっても海外の安価な材料と人件費等で作られる大量生産家具とは市場で対峙せねばならず、にわか個人作家とて世界の流れに晒されているのは実感する。「誰がどう作ったのか?」よりも「まず値段」というのが一消費者としては当然だと思う。
 そりゃあ個人の木工家が作る1つ10万円の木の机と、大量生産で作られる3万円の机ではもちろん値段相応に中身が違う。 しかし今日の大量生産の家具は全てが「安かろう悪かろう」ではないのだ。以前と比べたら海外製の大量生産家具の質やデザインはうんと良くなった。
 それに、一人暮らし・結婚・引越しなど住まいを変えることや、学生から社会人へなど、その時の好みや部屋の雰囲気・収納性に応じて「家具を買い換えていきたい」というニーズは現在の日本では高いように思う。
 
 「10万円の机を一生使い続けるか、3万円の机をその時の好みに合わせて生きてる間に3回買い換えるか?」と考えたらどうだろう?
 「20年以上使って(まだ使えたけど)飽きたし、今の部屋には合わないから(前のものは棄てて)新調した。」この意見に違和感や嫌悪感を持つ人が今の日本にどれだけいるだろう?
 使い続けた20年先に培われる家具への愛情≒心の充足を見越して、今本当に長持ちさせる家具を選べる人はどれくらいいるだろう?
 
 日本において「一生モノ」という価値は暴落したように思う。デジタル製品を筆頭にあらゆる物が新開発競争にさらせれている全世界的な傾向かもしれないが「次世代まで残せる木工家具」という価値よりも、「自分の生きてる間に楽しめる(換えられる)家具」の価値の方に惹かれる人は多いのだ。多品種大量生産による安価で豊富なデザインの家具によって、それを叶えられる時代が到来したのだから至極当然な流れと言える。
 
 買う側としては、ようやく安い物も選べる土壌が整ったと捉えてもいい。
 
紡いだ光の色は(6)へつづく 
 

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