【胡同 (フートン)】

  胡同の子供たち  
 中国の首都北京には古い住宅が並ぶ狭い路地が沢山ある。
 その路地は、下町の人々の暮らしが狭い道に溢れて隣近所と繋がりを築いている様な場所で、そういう感じの路地を「胡同(フートン)」と言った。日本で言うところの“長屋横丁”みたいなもので、胡同が繋がりあって古くから庶民の町ができ(胡同区)、周辺に暮らす人々の憩い・商い・交流などの場として機能する路地である。
 胡同区にある建物は、レンガと瓦、木と漆喰で作られた平屋建物で、多くはかなり古く年代モノだ。中には清、明という時代から300年・400年と経た建物もあると言われる。
 北京オリンピックの開催で北京の胡同も脚光を浴び、TVメディア等が取り上げたおかげで胡同を初めて知った人も多いと思うが、その昔に日本の小学校で使われた国語の教科書に胡同の風景を描写した文が採用されていた。 ※1941〜1945年 国民学校初等科『初等科國語 六(アサヒ読本)』
 
 北京(ぺきん)の町には、胡同が網の目のやうに通じてゐる。胡同といふのは、小路(こうぢ)のことである。
 どこの家も、高い土塀(どべい)を立てめぐらしてゐるので、小路は、おのづから高い土塀續きになつてゐる。あまり道幅もない兩側の土塀の上から、ゑんじゆの枝や、楊(やなぎ)の木や、ねむの枝などが、ずつと延び出してゐる。いはば、胡同は一本の管になつて、どこからどこまでも、つながつてゐる感じである。
 一見、何の曲もないやうなこの胡同ではあるが、ここに住んでゐる子どもたちにとつては、かけがへのない樂しい遊び場所であり、大きくなつてからのなつかしい思ひ出となる天地である。
 冬は冬で、風當りの少ない胡同の廣場に、子どもたちがたむろして、日だまりを樂しみ、夏は夏で、ひんやりとした土塀の日かげを選んで、風の通り道で遊んでゐる。
 遊ぶといつても、別におもちやや繪本などを持つて、遊ぶわけではない。その邊を走つたり、地べたに尻(しり)もちをついて、穴をほつたり、土で團子のやうなものをこしらへたり、遠くの方から響いて來るいろいろな物音に、耳を傾けたりしてゐるのである。 (‥以下続く)
----------------------------------------------------
Wikisource『胡同風景』より一部を抜粋
 
 この文章の作者はわからなかったが、5年生後期用の国語教科書に「附録読み物」として採用されたもののようだ。今年74〜78歳になる日本人はこの胡同風景を読んでいたことになる。
 内容は胡同の様子が解りやすく的確に書かれ、全体から感じる胡同への眼差しが暖かい。‥が、読んだ子供らはこの文章から何を感じていたのだろう?何しろその頃は日中戦争(第二次世界大戦)の最中で、日本と中国は敵対し、激しい戦闘・殺戮を繰り広げていたのだ。
 この文章を当時採用した日本の教育意図は、一体どういうものだったのだろうか?
 
 胡同はその激動の時代を潜り抜けながら、今も昔と変わらず人々の潤いに満ちた古い下町だ。
 2008年、「中華民族100年の夢」と謳われた北京五輪が開催され、北京は開発(近代化・道路拡張・区画整理)により胡同区は大きく減少した。3世紀以上変わらずにあった胡同の景色は、もしかしたら明日の半世紀後には僅かな保存地区に観光用に姿を残すだけになるかもしれない。
 この今もまた激動と呼べる時代なのである。
 
 私の好きな胡同の風景を伝え・描き残すために、また中国の町へ行きたいと思った。
 

旅人彩図 『狭い路地?』 戻る