人生という日常の合間に見つけた平凡な感動や、過ぎ去る時間のぼんやり思惑。 人生紀行

 
金属を溶かす制作
No.144 わかり始めたコード(4) 2014. 5. 6

 何度も観た、ルパン:カリオストロの城であっても、年齢と共にその物語の読み方を変え、新しい気付きや発見があったことはとても嬉しいことだった。
 私も大人になったということ…つまりは、単に年齢という時間経過だけでなく、私自身が知識の獲得や蓄積を経たことで、物語に織り込まれた意図をより多くデコード(解読)できるようになったということなのである。
 〔作品の味わい方というのは、その時その時によって変化するものなんだなぁ‥。〕と、身をもって感じる。 逆に考えれば、知識の蓄積が少ない状態では気付ける描写が少なく、その意味も解釈できない(しない)まま、物語を味わってしまうのである。
 観る側の知性、それから人間性でもって、物語や表現作品を観た際の感想が異なってくるのは、正にそういうことを指しているのだろう。
 無知な者にとって、解らない描写・表現というものは、「暗号(コード)」みたいなものだ。無知ながらも「自分には理解できない暗号のような何かが配置してあるようだ‥」と判ればまだいいが、多くは暗号の存在に全く気付かずに物語を鑑賞し終えてしまったり、むだが多い(冗長な)ストーリーに感じて「つまらない・わからない」と評価してしまうかもしれない。
(※作品制作する側にとっては、そこらへんの見せ方や鑑賞する者を想定した内容・バランス感覚というのは大事ですねー。)
 
 鑑賞する側の私としては「より楽しむために、出来るだけの知識を持って物語を解釈できるに越したことはない」と、この頃は思うのではあるが、今後、知識が先行しすぎてしまい、触れる作品の多くが“酷くつまらなく”思えてしまう、本末転倒な事は避けたいものだ。
 「リアリティに欠ける」とか「出来過ぎ」「演出過剰」なんて言いふらす様な目の肥えた視聴者になり、世にある多くの作品を楽しめなくなる時も、私の身にもやがて来るのかもしれないが、その作品が誰(世代)にあてられた物かを理解し、心から楽しめなくてもその表現から貪欲に学び、別の角度から楽しめるようでありたいと思う。
 
わかり始めたコード(5)へつづく 
 

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