人生という日常の合間に見つけた平凡な感動や、過ぎ去る時間のぼんやり思惑。 人生紀行

 
展示風景
No.140 一年一度の思いを込めて(6) 2011.12.24

 こういう動機が簡単に解る人もいれば「はぁ?バカじゃないの?」という人もいるだろう。よって「自己満足にもほどがある。」と言われれば‥その通り。
 こんなものを完全自腹で作って、それで間接的に図工授業を盛り上げても、講師で貰える給与は全く変わらない。そこは「子ども達の為!」と称せばカッコイイ所なのだが、10歳の子どもに行う図工でキオスク端末なぞ用意しなくても、もっとアナログな(従来的で、教科書的な)図工であっても彼らは充分楽しんでくれるのだ。ここまでしなくても図工の先生は問題無く務まる。いや、教材内容よりももっと授業展開やコミュニケーションに注意を払う方のが小学生には実のある事かもしれない。
 でも‥、パソコンとかちょっと喜んでくれるんだよね。今の子ども達、みんなPC好きみたいでさ。なかなか家では使わせてもらえないのもあるのかな。「自分の満足を独りで追っていたら、誰かが喜んでくれた。」って、幸せだ。それとも、喜んでくれる人がいるから自分が駆り立てられたのかもしれないな。
 自分の想いが他人の心を動かし、他人の想いが自分の心を動かす。人の心はいつも響き合って音色を奏でているんだ。
 
 こんなアート紛い(がらくた)な拙いキオスク端末でも、閉じられた学校という場所では大勢(子ども)にウケたりするので「結構悪くない」。
 世間ではこういう形でキオスク端末を自作する人は少ないだろうか。アート作品としても中途半端だし、儲かる・儲からない基準では、完全赤字でその後の運用にも労力がかかる。公立学校では「儲かる」かどうかなんて概念は無いし、それに私は講師で正職員と比べたら給与・賞与・保険・年金・福利厚生などで大きく損を喰うことは明らかだから、授業外でエネルギー&時間を注いでいる自分に対して「俺もバカだよなぁ‥」と、よく思う。
 〔もっとサラリーマン講師に徹底して、自分の時間を有効に使うべき!〕‥と、日々私のドグマ(教義)が心の底で渦巻いているんだけどね‥。
 “お金”という奴はいつも人の精神(魂)を何らかの形で侵していて、だんだんと「儲からないこと」すなわち、お金が得られないであろう仕事や勉強、労力や思考をおざなりにするんだと思っている。そしていつしか何事にも「費用対効果」が優先される人間になってしまえば、キオスク端末の自作や変わった図工ネタも、それを用意するような新しい知識や技術を獲得するエネルギーを、私は自ら捻出しなくなってしまうんじゃないか‥と、思うのだ。
 新しいことを行うには、勉強と実践と失敗を繰り返すことになる。それらに払う労力と時間と費用に二の足を踏むようでは、先にある知識と技術と満足の獲得は見込めないはずだ。旅先の語学だってそう。使って恥をかいて暗記・学んで‥。旅が終われば多くを忘れるけれど、それを繰り返す。旅に関係なく頭に残る1単語が、何か新しい発想に繋がるときがある。(※使った言葉の分だけ旅の終りに残る想い出は深いよ。)
 ただ、世間(社会)や組織(会社)は費用対効果の薄いことを賞賛しない、(多勢であるそちら側の人は)むしろ稼ぎを得られず、時間も労力もかかる非論理的な行いは蔑ますか、笑いものにするだろう。しかし、お金や論理的な思考から、面白い物は生まれにくい。私は無欲な直感の実現にエネルギーを注いでいたいのだ。
 
 今回こうしてPC図工授業+自作キオスク端末が実現できた理由は、多様な方向性の知識と技術を組み合わせた結果だ。ここまでに来るのには時間がかかった。10年前の自分には不可能だったし、5年前でも不可能だったし、3年前でもやはり不可能だった。現在においても、PCについての知識も、制作技術も、授業の手腕も、どれもが中途半端な私ではあるが、中途半端でもそれら全てを併せ持つ人は意外と少ない。(儲からない組み合わせなので、その発想が生まれないのかもしれない)
 これは全ての人にあてはまることだろう。一流の何かを持っていなくても、中途半端な知識と技術を上手く組み合わせれば、誰にもできないあなただけの何かを実現できるかもしれない(実現できた物を「個性」と見る人もいる)。半端者同士、自信を持とうではないか!(←おい、誰が半端者だって?)
 一年一度の機会であっても半端な知識を身に付けるには充分で、頭の回路を少し切り替えてみれば、いつか誰もしない何かへ繋がっている‥かもね。(たぶんお金にはならないし、バカにされるよ!)
 
一年一度の思いを込めて おしまい 
 

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