人生という日常の合間に見つけた平凡な感動や、過ぎ去る時間のぼんやり思惑。 人生紀行

 
喫茶店で
No.119 春の便り(7) 2008. 7.20

 Yからの手紙を読み終えて、私はまたすぐに筆を執る。
 「Yが俺に謝る必要は無い。気にするな。」と大き目の文字で筆書きし、「弱気にならずがんばれ」と続けた。
 
 それからYとは年賀や暑中など、季節の便りを主にして時々に文(ふみ)を交わすようになり、何年か後に再会することになった。昔の友達の結婚式にYが遠くから駆けつけた“ついで”の事だった。
 2人で入った喫茶店のカウンター席で、お互いの日常や昔のクラスメートらの事などを明るく楽しく話し合った‥と思う。Yを前に内心緊張していた私は、何の会話をしたのかよく覚えていないし、何か恥ずかしい気持ちでYの顔をしっかり見れなかったのだ。
 話が途切れて沈黙に支配されるのが怖くて、私は頭をフル回転してくだらない話題を探しては口にしていたと思う。
 会話の端緒で隣に見るYの綺麗な横顔は昔のままで‥、お互いの状況は以前とは色々と変わっていて‥、もう一度、こんどは自分の口で、Yに伝えることができるチャンスであることを密かに意識していたが、それはできなかった。否、しなかった。
 その1年後にYは結婚。Yは旦那さんの転勤に着いてゆく為に自らの仕事を辞め、ずっと遠くの土地へ行った。あの喫茶店以来Yとは会っても声も聞いてはいない。ただ、Yに一人また一人と家族が増え、住まいを換え、暮らす土地を換え‥と、毎年目まぐるしい変化の中でも幸せそうなY家族の様子を写真に載せた季節の便りが、今でも年に1度届くのだった。
 
 そんな手紙にまつわるエトセトラ。
 
 あの頃と比べて今の私は手紙に対して臆病になった。ただ何気なく連絡を取り合うのに電子メールは使うけれども手紙を選ばなくなったし、選べなくなった。自分の怠慢(省労力)と、相手への配慮(臆病風)が、その利害をガッチリと一致させて、代替となる便利な通信手段が誰の手にも広まったのだから不可逆とも言える自然な流れである。大層な理由や動機が無いと便箋を前にして筆が進むことが無く、比べてメールに高いハードルなどは感じられない。
 〔本当は理由なんて必要なくて、ただ新しい切手を「使ってみたかった」という事で十分なはずだ‥。〕と、いつか昔Yからもらった手紙のことを思い出し、気持ちを改めてみる。
 「携帯電話を新しくして最新の機能で遊んでみた」「糊を1つ買うのに3軒店を回って半日つぶした」「最近聞いた初音ミクの歌が良かった」etc..、楽しかったり楽しくなかったりする出来事ををただ伝えて、返事なんか帰って来なくてもヘッチャラで、“オチ”も“告白”も無い文で良いのだ。
 気持ちをほぐし、筆を取り直せば、一人で居ながらも一人じゃない感じがして、便箋は2枚3枚と文字が連なるのでした。(←「初音ミク」の説明が長くなった)
 
 P.S.
 2008年7月23日に切手「はろうきてぃ」が発行です。同時発売の「はろうきてぃおたよりセット」が熱い!絵柄がみやびで季節外れなのは“ふみ”の日にちなむ郵便切手だそうで、平安文化をデザインしたみたいです。7月(文月:ふみづき)の、23(ふみ)日、この夏はワケなど無くとも手紙を書いてみてはどうでしょうか。
 
春の便り おしまい 
 

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