人生という日常の合間に見つけた平凡な感動や、過ぎ去る時間のぼんやり思惑。 人生紀行

 
小刀で彫る
No.101 バードカービングに恋して(5) 2007. 5.22

 しかし過去の自分記憶や現代のネット検索を少し探っても、バードカービングでは木の塊から彫り出す事は外せないようだ。まぁ、「カービング=彫刻」という分野だから当然か。粘土や樹脂で塑像すれば“バードフィギュア”と呼ぶことになる。
 リアルに“鳥を立体模倣する”ことを目標にしてバードカービングは新技術・テクノロジーを取り入れて発展してきているのに、木をカービング(彫刻)するという範囲に収まり続ける理由はどこにあるのだろうか?
 〔要は「やんごとなき大人の事情(マーケティング・ファンの獲得・美術的価値などなど)」ってヤツかもしれないな‥。〕と、かなり懐疑的な読みをしてみる。
 〔ウマいことやってるなぁ、バードカービング業界。(根拠無き妄想)〕
 
 「木を彫る」屁理屈を色々と一人勝手に頭に巡らせてみたが、実際に自分で1体彫って完成させてみると考えていた屁理屈(ナチュラルイメージが良い‥云々)に及ばない「木を彫る」の良さがわかった。
 制作に際し木目が邪魔をして「正確な造形が難しい」ことと、「作るのに時間がかかる」こと、どうもこれらが木を彫る良さの大きなポイントになってるんじゃないだろうか‥。
 おかしな話かもしれないが、じれったくて慎重にならざるを得ない制作過程がなければ、バードカービングの面白みは半減してしまうだろう。速く形を作れる粘土塑像ではなかなか味わえない感覚がそこにはある。
 際限なく時間がかかって、しかも全く上手く作れないと“作る気”が湧かないので、そこは「適度」な範囲内での話しではあるが、木彫は粘土塑像に比べてやり直しが効かない慎重さが求められ、形を作り上げる時間も多く必要とする。木目の流れを誤って彫れば思わぬ方向に木が割れ、場合によっては修正できないこともあるのだ。
 じれったくとも慎重に進めないと、壊れてしまう‥一見すると、木材よりも粘土や樹脂の方が利点が多い様に思うものだ。
 しかし、そのじれったいプロセスを経て木の塊が鳥の形へ近づいたとき、感情的な変化が作る者には訪れる。突如ある時を境に、まだ彫りかけの鳥型にまるで生命が宿ったように感じられて、作る者をドキッとさせる。それまで木の塊でしか無かった物体が、生きている鳥のようにいとおしく感じてくるのである。
 この感覚は生き物を描いたり形作る時には多かれ少なかれ味わう感覚で、特に立体物の場合は強く表れるし、制作に時間を費やした場合も強くなって感じられる。それにバードカービングでは実物大で作るのが基本だ。
 
  立体・実物大・リアルを追求、そして手間ひまかかるとなれば作り手が得る生命感は一層強い。
 
バードカービングに恋して(6)へつづく 
 

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