人生という日常の合間に見つけた平凡な感動や、過ぎ去る時間のぼんやり思惑。 人生紀行

 
カービング
No.98 バードカービングに恋して(2) 2007. 3.25

 そういえば幾つか習い事へ通っている母と義姉が、少し前に何かの教室を見学してきたらしく、その感想を話していた。「若い講師は熱心に教えてくれるから嫌なのよ。」と2人で話している。
 その会話を横で聞いていて〔???熱心に教えてくれる先生のが良いのでは???〕と、私は自分の耳を疑った。
 聞き耳をそれとなく立てていると「熱心に教えてくれるのはいいけどそれについていくと疲れるし、何かプレッシャーを感じて面白くなくなり、結局(教室通いが)長続きしない」ということらしい。
 “若い講師”は比較的熱心に教えてくれる傾向が強く、“ニコニコおばちゃん先生”はいい加減に手を抜いて教えてくれるから楽で続けやすいと言うのだ。
 母と姉にとっては「技術の上達・習得」ではなく「楽しく続けられるかどうか」が習い事の重要な要素であり、それを講師の第一印象など人柄でシビアに見て来たわけだ。
 〔なるほどーーー!〕
 この会話の一部始終を聞いて思わず心の中で唸って「若くて熱心な先生」と「ニコニコおばちゃん先生」の顔を勝手に想像する。また、最近料理教室に通い始めたという友人が、その講師のアバウトで細かくない分量指示が気楽で、教室が明るく面白いから気に入っていると言っていた事も思い出した。
 習い事へ行く人が求めていることはそれぞれに違うだろうから、全ての先生がいい加減では困るが、分相応なレベルにあった教え方や学び方があるのだということことに改めて気付く。
 案外“適当”に見える先生は、そういう配慮の上での振舞い≒“いい加減”を知っての教え方かもしれない。
 自分が講師を勤めたバードカービング講座は‥、私はわりと馬鹿正直に1から10まで教えようとしていたから、子どもにはプレッシャーで疲れる講座だったかなぁ‥。明るく笑いのある展開もそれほども無く、黙々と木を彫り続けたから楽しい時間を仲間と過ごせる場ではなかっただろう。子どもが求めていたような時間を提供できたのか?その後も続けたくなるような楽しさを提供できただろうか?
 ずっと前に過ぎ去った事ながら改めて己に問いただしてみる。
 
 自分が何かの生徒であったのは少し昔のことで、教室通いする者の気持ちなんてすっかり忘れながらバードカービングの講師を勤めていたわけで‥。立場が変わり相手の気持ちを思い量れなくなるというのは、なんと乏しい想像力であったことか‥。
 
バードカービングに恋して(3)へつづく 
 

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