人生という日常の合間に見つけた平凡な感動や、過ぎ去る時間のぼんやり思惑。 人生紀行

 
校舎
No.90 10年先にあるものは(3) 2006. 9.15

 Tの実家を後にした私達は共に過ごした小・中学校へ歩いて向かった。もう十数年と訪れていない場所。
 小学校に隣接して建っていた中学校は少し離れた場所へ移転してしまって、あのころの景色は変わっていた。周りにも家やビルが建っていて、当時の面影は所々に痕跡を残しているだけだ。
 それら痕跡を見つけては、自分の思い出を呼び覚ましてみて嬉しくなったが、ふと遠くへ来てしまったような寂しさも感じずにはいられなかった。
 ここは自分の居るべき場所ではないような、孤独感に似たような気持ち‥。
 滋味に富んだ記憶との照合という点で、大人になりすっかり建て替え、または取り壊された自分の母校を訪れたときの気持ちは、誰にとってもショッキングなものだ。
 私もその変わってしまった姿を見なければ、気持ちがざわつくようなショックを感じることはなかっただろう。
 昔を想って余計な憂鬱で立ち止まることもなく「思い出なんてクソ喰らえ」というつもりで前だけ見て突き進むことの方が幸せなんじゃないだろうか?忙しさに鼓舞して忘却していた方のが、健全であり、充実感に満ちた日々があるように思う。
 〔過去の思い出に一喜一憂して一体どんな意味があるというのか?〕‥この10年、自業自得でありながら立ち止まってばかりの自分を思った。
 
 小さな木片・使ってないコースター・ラムネ瓶のビーダマ・小さな鉄製の箱・壊れた高級シャープペン・ずっと触ってもない腕時計・珍しいと思っていた石ころ・キラキラの金属塊‥、身の回りに置いたこれらは、もう輝きを失った物がほとんどだけど、私にとって照合が効くこれらの小物たちは、今もずっと記憶の源泉であり続けている。
 人生は小さな塊の集まった複雑なもの。前を見ても後ろを振り返って立ち止まっても‥、恐れずに沢山の一喜一憂を詰め込んだ方がいい。たくさんの輝くものと合わせて、つまらないものや、寂しい孤独も慈しんで、大切に胸に刻みたい。
 夏に冬の寒さをハッキリと感じるのが難しいように、胸を激しく痛めるような悲しみも、きっと忘れてしまうものだから‥。
 
 Tよありがとう。また今日から人生を分厚く出来る一喜一憂やくだらない何かを、コツコツと詰め込むとするよ。いつか痛みも愛せるように、生きてみようと思うんだ。
 
 さて、明日への帰り道はこっちだったかな?
 
10年先にあるものは おしまい 
 

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