人生という日常の合間に見つけた平凡な感動や、過ぎ去る時間のぼんやり思惑。 人生紀行

 
No.10 お葬式 2003.10. 13

 以前同じ職場で働いていた上司のお父さんが亡くなるという知らせを受けた。親交はそれほどあったわけでもなく、そのお父さんは会ったこともない。だから悲しくもなく、親の死に目に遭った元上司にもわずかな同情しかできない私は、通夜・葬儀・香典などを用もなくキャンセルした。
 一応元同僚として香典だけ出すのがベターだったのだろうが‥、う〜ん微妙。自分の親が死んだとき元同僚にせよ自分の友人にせよ、私の親の顔を見たこともない人を呼びはしないし、見たことある人にも大した関係がなければ知らせもしないだろう。そういう考えが浮かんで全てをキャンセルしたが、後になって「俺は薄情者なんだろうか‥?」とモヤモヤした気分を過ごすはめになった。
 今までに自ずと駆けつけたいと思う葬儀が自分の周りであっただろうか?はっきり言えば無かった。義理だったり、慣例にならったり、周りに合わせたりしたものが殆どだった気がする。不謹慎な発言だが、葬儀は面白味がないから行く気はしなかった。(やはり薄情者です。)
 とても悲しんでいる人がいるわけだから久しぶりに葬儀場であった人にべらべら話しをするのも気が引けるし、お経や祈りを聞くことに意味を感じられなかったというのが事実。「そういう観点で出席するものじゃない。」と、お叱りが聞こえてきそうだが自分の死に際して義理で集まってもらうのは御免だ。
 自分の葬儀は気楽で楽しいものであってほしい‥と思う。お客さんに酒やつまみを振舞って、それまでに作った自分の作品や生前の若い頃からの写真やエピソードなどを展示して、会場で展示物を見ながら来た人と楽しく話したりダラダラとくつろげるような‥そんな葬儀(喪展?)がいい。しかし葬儀を準備運営するのは自分じゃなくて残されて少なくとも悲しんでいる人だろうから、そんな葬儀を頼むのは酷だろうし楽しい雰囲気を作ってもらうのは無理かナ。でもお客さんをもてなすという意味では現行の葬儀ではつまらなすぎるから、それならば私の死に際して人を呼ぶことはしないでほしい。やるなら楽しいもの、楽しいものができないならやらない。
 ”個”を殺している現行の葬式のようなものではなく、”個”を活かした葬式の方が故人を偲ぶという意味を完遂できると私は思うのです。自分の葬式に来てくれる人を自分でもてなせたらいいのに‥と秋の夜長に無理なことを願うのでした。「よお!久しぶり。遠いところからありがとな。予定より早く突然死んじゃってさ〜。ごめんねー。ま、上がって上がって。ハイ、まずは一杯、カンパーイ!いやー残念でした俺。」‥こんな感じでみんなを葬式でもてなせれば最高。
 
 

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